自分を許す———この言葉を何度も見聞きしてきました。
自分というものを、自分の生き方を、見直すようになってからこれまで何度も。
ですが、一見シンプルなこの言葉の意味を私はよくわからずにいました。
意味を履き違えたまました選択も、たくさんあったと思います。
色々試して失敗もしながら
「自分を許す」その意味を今ようやく感じているところです。
その許しの深さに比例して世界が優しくなっていくことも。
逆に、自分を許すことが出来なければ、
いくら行動レベルで頑張っても、世界の本当の優しさを感じることは難しいのだろうと思います。
そして「自分を許す」にはいくつか段階があることも知りました。
その時々の自分の状態によって、同じ「自分を許す」でも向き合っているものがまるで違ったのです。
10年前の私が、今の私を単純に真似しても
「意味がわからない」で終わってしまうと思います。
この記事では、これまで私が踏んできた段階を時系列でまとめてみました。
「自分を許す」って体感してみるとそんなに難しいことではありませんが
口で言うほど簡単でもありませんでした。
色々な情報に触れているうちに、知恵の輪みたいに絡まって
わけがわからなくなってしまっていったのです。
ただ、知恵の輪にも解く順番があるように
許しにも段階があるのだと思います。
ご自身が今どの段階にいるのか
今何を許せずに抵抗してしまっているのか…
それを解くきっかけになればいいなと思います。
「自分を許す」最初の一歩
私が執った最初の一歩は愚痴を言うことでした。
そんなこと?かもしれませんが
それまで愚痴さえ抑えてきた私にとって、これは大きな大きな変化でした。
それまで私は“理想の自分”になりたくて
本当は子育てが大変なことも、本当は夫婦間に亀裂が生じていることも
誰にも吐けず相談できないまま、自らの内側に抑え込んでいました。
実母にすら弱音が吐けませんでした。
当時書いていたブログには、綺麗な側面ばかりを切り取った体裁のよい言葉が並んでいます。
そして抑圧に抑圧を重ねた結果私は“適応障害”になり、感情のコントロールが出来なくなりました。
これまで我慢していたものが溢れ、本当は私はこんなに怒っていたのだと寂しかったのだと知ったのです。
毎日が辛くて辛くて苦しくて、そんな自分が悲しくて、行き場のない感情でいっぱいになった私は
新しく開設したブログで本当の気持ちを綴り始めました。
それまで格好のいい事ばかり書いていたブログとは違う、
ダサくて弱くて情けない自分の本音を綴ることにしたのです。
そのうちに少しずつ本音を書くことにも慣れ
その本音を綴る場をブログからTwitterに移しました。
誰も知らないブログとは違う、少数の友人と繋がっていたアカウントです。
綺麗事ばかり書いていたブログで仲良くなった友人たちと。
ものすごい抵抗感がありました。
だってこれまで綺麗事ばかり、格好のいい事ばかり、私は綴ってきたのです。
がっかりされるんじゃないかと思いました。
もしかしたら嫌われてしまうかも…
それでも何故その時Twitterに書こうと思ったのか
当時の気持ちは覚えていませんが
きっともう自分を偽るのは嫌だったのだと思います。
好きな友達だったからこそ、嘘のない本当の自分で接したかったと思うのです。
愚痴や不満、辛さ苦しさを、毎日のように書き殴りました。
実際に「前のyuuさんの方が良かった」と言われたこともありました。
心のどこかで「あぁやっぱり」と悲しくなったのを覚えています。
ですが、鍍金だらけの私が好きならガッカリしてもらっていいと思ったのです。
私はそんな立派な人間じゃない。
苦しい時に「苦しい」と、悲しい時に「悲しい」と言うことさえ許されないなら
そんな望まない世界にはもう嫌われていいと思ったのです。
愚痴や不満、怒りや恨みなど…
汚い本音を綴るというのはつまりダメな自分を許すということでした。
理想の自分を演じるために書いていた綺麗事とはまるで違う
ちゃんと出来ない自分、非常識な自分、
短気な自分も、ものすごくワガママな自分も
それをそのまま綴ることで、ダメな自分を少しずつ許していったのです。
夢や希望を抱くことを許す
愚痴や不満を書くことにもすっかり抵抗がなくなった頃、次の許しの段階が現れます。
それは鏡リュウジさん著の「牡羊座の君へ」と出会ったことがきっかけとなりました。
「牡羊座の君へ」には、これまで短所だと、良くないと思っていた私の要素が
まるで素晴らしい個性のように、類稀なる才能のように描かれていて
自分の中から込み上げてくる力強い何かを感じました。
それはとても懐かしい久しぶりの感覚でした。
まだこれから先の自分自身に可能性を感じられていた頃の。
それがいつからか現実を知って、その厳しさを知って
自由な未来を描くことを辞め、既存の型にはまろうとしていたのです。
“社会人として”
“主婦として”
“母親として”
ちゃんとした自分であるために。
慎ましいことが良しとされ、健気であることが良しとされ
贅沢をせず欲をかかず、自分のためでなく誰かのために…
そうやって誰かに認められるための日々を歩んでいるうちに
誰のためでもない自分のための夢を描くことも
その未来に希望を抱くことも主観的な幸せを望むことも
まるで悪いことのように思えてきて。
自分を生きるということをすっかり忘れてしまったのです。
「牡羊座の君へ」に触れて感じたあのワクワクはドキドキは
誰のためでもない私だけのものでした。
社会人としてでも
主婦としてでも
母親としてでもない
“私”という個人の人生に対する久しぶりの脈動だったのです。
「自分を許す」2つ目の段階は
夢や希望を抱くことを自分に許すということでした。
それを現実的な行動に移すのはまだもう少し先の話ですが
自分の中でうごめく『本当は』『もっと』という本音や欲求を感じられたこと、
私個人に、その人生にワクワクするのは久しぶりで
たった一度の人生を適当に終わらせたくないという気持ちが、溢れ出て仕方ありませんでした。
自分のための選択を許す
「牡羊座の君へ」との出会いから数年後、
あの日抱いた『本当はもっと自分らしく生きたい』というその本音を
少しずつ行動に移すようになります。
きっかけは当時やっていたフルタイムの派遣の仕事でした。
仕事自体に不満があったわけでも職場環境が嫌だったわけでもないのですが
※むしろ恵まれていた
ただ、このままこの働き方を続けても自分が望むような人生は、一生送れないだろうと気付いたのです。
私はもっと自由に生きたかったし、その為のお金も欲しかったし
だけど体に鞭打つのはもう嫌で、
一人息子との大事な時間を犠牲にするのも嫌でした。
誰かや何かを犠牲にしたり諦めてしまうことなく
自分のペースで自分の好きにお金を稼げたらいいなと。
どうやったらそれが叶うのか、当時の私にそのアイデアはありませんでしたが
不思議なもので望んだ後現実にそのアイデアが現れたのです。
「エステティシャンとか興味ない?」
友達からのその一言をきっかけに、私は転職先を決めることになります。
それまでの、時間に収入が比例する働き方とは違う、完全歩合制の仕事でした。
いつ働くかいつ休むかも自由。
収入は時間ではなく結果だけに影響される。
自分の責任で自分の判断で、働き方を決められる職場。
これはものすごい希望でした。
自分が望んだ生き方は叶えられると実感できたのです。
その体感をきっかけに独立を考えたり
その資格取得のために講座やスクールに通ったりと
自分のための具体的な行動を、どんどん起こすようになりました。
「やっていい?」と誰かに一々許可を取ることも、行動に比例して減っていきました。
もちろん行動にはお金もかかります。
自分のためにお金を遣うのはものすごい抵抗がありました。
誰かのためのお金なら遣えても、自分に遣うことはできなかったのです。
ザワザワざわざわ…ものすごい抵抗と罪悪感。
資格取得のためならまだマシでした。
“資格取得のため”という一見立派な理由があったからです。
スクールに払う10万円よりも、カフェで飲む一杯数百円のラテの抵抗感の方が強かった。
何にもならない、自分の至福のためだけのお金。
それでも、少しずつ少しずつ慣れていきます。
最初は週イチだったのが、そのうち連日行くようになり
2杯目が頼めるようになり、ランチもできるようになりました。
本も月に一冊から週に一冊→欲しい時はいつでも買っていいと少しずつその許可を大きくしていき
そんな小さな許可と行動を繰り返していくうちに
自分の人生に面白いことが次々起こるようになっていったのです。
すごくない自分を許す
自分のために行動を起こすことにも、自分のためにお金を遣うことにも、気付けばすっかり抵抗はなくなり
現実的に面白い出来事も次々起こるようになりました。
いつか本当は望みながら諦めてしまっていた夢を、いま日常にできている気がして
自分の人生を『楽しい』と思えるようになっていました。
その一方で『何で上手くいかないんだろう』『一体何が足りないんだろう』と頭を抱え続けたことがありました———仕事です。
自分のための選択をし続けているうちに、私は占い師として起業するという大きな選択もできるようになっていました。
2019年の春に起業。
最初は自分でも驚くほど順調で、その充分な手応えにガッツポーズしながらどんどん爆進していくつもりでした。
なのに、いつも何かがおかしいのです。
稼ぎは充分にあるはずなのに、払いたいお金がなぜか払えなかったり
稼いでも稼いでもお金は不安で、私はいつも何かに怯えていました。
そのうちに、その漠然とした違和感も不安も現実のものとなりました。
あんなに順調だったはずの仕事がピタリと上手くいかなくなったのです。
何を発信しても何を募集しても手応えが全く感じられない。
おかしい。何かがおかしい。
自分らしく生きるということも、自分を許すということも
これまでもう何年も何年も続けてきたはずでした。
なのになぜ現実はこうも上手くいかないのか…
そうなのです。
私は許せていなかったのです。
仕事で成功したら○で
成功できない自分にはいつも×をつけ続けていました。
そもそもなぜ仕事の成功をあんなにも望んでいたかというと
仕事で成功すれば、自分で充分なお金を得られれば、誰にも頼らなくて済むと思っていたからです。
やりたいことも行きたい場所も、欲しいものもすべて自分一人で叶えたかったし
それを叶えるかどうかもすべて自分の許可だけで決めたかったのです。
自分にその力がなければ誰かの力を借りることが必要で、その為には誰かの許可が必要で、
それは“迷惑をかけること”だと思っていました。
まるで変わっていなかったのです。
誰かに認められるために、誰かに嫌われないために
愚痴や不満さえも言えず理想の自分を演じ続けていた頃の私と。
自力をあんなにも欲したのは誰にも頼らないためでした。
頼るというのは迷惑で、そしたら嫌われてしまうと思っていたのです。
お金があんなに怖かったのも、自分のお金くらい自分で面倒を見られたら
最低限“ちゃんとした自分”でいられると思ったからでした。
どんなに自分の好きなように生きても、お金さえちゃんとしていれば誰にも文句は言われないだろうと。
だからお金が欲しかった。ちゃんとした自分でいるために。
だから仕事で結果を出したかった。誰にも嫌われないようにと———
仕事で結果が出なくなってからというもの
私はまだ残る“ダメな自分”を嫌というほどに見せられました。
散々偉そうなことを言って、散々自分の好きにして…なのに現実は上手くいかず、
まったく私は口ばかりで、結局いつも誰かを頼っては面倒ばかりかけていたのです。
情けなくて仕方ありませんでした。
なんでこんなに上手くいかないのか、何が悪いのか誰か教えて欲しかった。
ですが“結局いつも誰かに助けられる”うちに
他人のありがたみというものがやっとわかるようになりました。
思うような結果が出せなくても、私が全部出来なくても
これまで無事に生きてこられたのは誰かや何かのおかげでした。
スピリチュアルな話になりますが、私は前世からの大きなカルマとして
『すごくなければ愛されない』という根強い思い込みを持っています。
だから『自分一人で』が強かったのです。
誰かに差し出すことは出来ても、受け取ることが出来なかったのです。
結果が出せないということは=すごくない=愛されないのだし
誰かに頼るというのもまた=自分はすごくない=また誰にも愛されない、だったのです。
これでもかというほどに“すごくない自分”と対峙しました。
その度にすごくない自分を認めました。すごくない自分を許してきたのです。
これは私にとって本当に大きいカルマなので
認めても認めても、許しても許しても
きっと一生顔を出す問題なのだろうと思います。
「自分を許す」ことに終わりなんてきっとなくて。
それでも、そんな自分に気付く度に許せばいいのだと思います。
コンプレックスを許す
「すごくなければ愛されない」という思い込みは当然、自分の見た目などにも影響を与えます。
私は自分の外見にも強いコンプレックスを抱いていました。
特別スタイルがいいわけでも特別顔がキレイなわけでもなく
特別オシャレなわけでも特別個性があるわけでもなくて
特に肌が弱いということに関しては、ものすごい劣等感でいっぱいでした。
鏡で自分を見る度に「はぁ………」と深いため息が出ます。
自分のダメなとこばかりが目について、早くこれをどうにかしなければ、誰にも認められないような気がしていました。
同じ『綺麗になりたい』という望みでも
『綺麗になったら嬉しいから✨』『もっと楽しそうだから✨』という動機と
『今の自分がブスだから』『今の自分が汚いから』という動機とでは
その根っこはまるで違います。
後者の場合、たとえスタイルが良くなっても次はお肌が気になるのだろうし
たとえお肌が綺麗になっても、次は顔の大きさとかが気になると思うのです。
つまり自己否定から始まる望みは、いくらそれが叶ったところで、また別の否定を産むだけなのです。
コンプレックスさえどうにかすれば、自分に自信が持てると思っていましたが
今の私ではたとえいくら整形しても、一生自信は持てないと気付きました。
それは“綺麗になるのを諦める”ということではありません。
肌荒れすれば悲しいと思うのは自然なことだと思います。
ここは私も練習中で、自分の外見をそのまま許すというのはまだ出来ずにいるのですが
まずは切り離して考えるようにしました。
もし肌荒れしたら『肌荒れしちゃった。悲しいな』で以上マルにします。
『=私はダメ』と繋げるのではなくて。
『綺麗になりたい』という思いと、『そうでなければ愛されない』という思い込みを
まずは分けることにしたのです。
実際私は陶器のような美肌の人よりも、北欧のソバカスだらけの女の子の方が魅力的に感じたりします。
“綺麗”というのは本当に人それぞれで、自分のことも相対的に愛せたら幸せだと思うのです。
そのまんまの自分を愛する
これまで私が辿ってきた道を時系列でまとめてみましたが
要は「自分を許す」って一言で表すと、「そのまんまの自分を愛する」ということなのです。
愛されるために、認められるために
何かを足したり直すのではなくて
すでに充分にあって、すでに愛されているという前提を思い出していくこと。
その前提に対する否定の声を緩めていくことなのだと思います。
何が出来ても何が出来なくても、何があっても何が足りなくても
私という価値は変わらないし、私はすでに愛されているということ。
とはいえ、愚痴や弱音も言えなかった頃の私が「自分はすでに愛されている」なんて、すぐに思えるはずがありません。
顕在的には思えたつもりでも、潜在的には否定したままなのです。
だから段階があるのだと思います。
まずは嫌なことを「嫌」ということ。
愚痴や弱音が吐けること。
次に好きなことを「好き」ということ。
本当の望みを描くこと。
そして根強いカルマを一つ一つ解かしながら
そのまんまの自分を自分自身が受け入れていくこと。
そうしていくうちに、自分を責めていたのは他人ではなく、自分自身だったことに気付くはずです。
世界の誰よりも自分自身が自分を否定していたことに。
自分が自分に優しくした分だけ、世界も自分に優しくなります。
自分が自分に優しくした分だけ、自分も世界に優しくなれるのです。
そんな優しい世界で生きられたら、どんなに幸せだろうと思います。
最後に、前世から持ち越してきたカルマについてですが
ここを癒していくことで、私は本当に私に優しくできるようになりました。
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